「救らい」の克服なしには人権尊重の社会は実現しない

~ハンセン病国賠訴訟熊本判決(2001年5月11日)から考える~

浜崎 眞実
カトリック司祭

「らい予防法」が憲法違反として断罪された2001年5月からは、ハンセン病に関するものの見方の枠組みが司法の場では大きく転換しました。しかし、それに他の分野が追いつけていないのが現状のようです。2019年6月28日には「ハンセン病家族訴訟」の原告勝訴の判決。その後控訴させず判決を確定させ、首相からの直接の謝罪を引き出すことができました。その結果を導き出したのは、家族訴訟の原告の声が大きな要因でしたが、それだけではなく2001年の熊本地裁勝訴判決の力が及んでいたからでもあるでしょう。

認識の枠組みの転換をもたらした2001年熊本地裁判決

私たちの国では「らい予防法」で合法的に、ハンセン病者とみなされた人を隔離して絶滅させ、国家をハンセン病から守るという「救らい」活動が実践されてきました。それは善意の市民をも駆り立てるもので、優しい顔の慈善によって、ハンセン病者とされた者を社会から排除しました。人々が「救らい」活動へ促されていく背景には、「私たちの社会にはハンセン病に対して偏見差別が蔓延っている」との共通認識が前提としてあります。次に、そのような社会にいては迫害を受けるのではないかと心配します。更に、その危険を避けるために療養所に入り、そこで同病の仲間と一緒に生きる方が幸せであるとの決めつけに至ります。善意に溢れる思い込みが世間の常識になりました。

そのような社会にあって「らい予防法」による国策こそが憲法違反と認定したのが、2001年5月11日の熊本地裁判決でした。それは「天動説から地動説」、あるいは「天皇主権から国民主権」という動きにも匹敵する程の画期的な出来事でした。すなわちハンセン病問題を見る枠組みの大きな転換が起きたのです。

問われているのは、個人の人格やアイデンティティではなく政治的権力的立場性

「誰もが忌避していたハンセン病療養所に、頻繁に訪問したのは宗教者だった」として「救らい」活動を誇りとし免責の根拠として語る宗教者もいます。しかし、熊本地裁判決によってものを見る枠組みの転換が起こったことを真摯に受け止め理解するなら、宗教者の「慰問布教」などの「救らい」活動は反省の対象です。それはハンセン病者と関わった個人のアイデンティティや人格を非難するのではなく、ポジショナリティとしての政治的権力的立場性が問われていることだからです。

それは2016年の「障害者差別解消法」で障害に対する認識の変更にも通じます。すなわち、障害が個人にあるとする「医療モデル」から、社会にこそ障害があるとする「社会モデル」への転換です。そこでは障害者への配慮が足りないから、障害者に対して優しく接しなくてはならないと主張しているのではありません。そもそもこの社会は「健常者」への配慮に満ちた「配慮が不平等な社会」なので、その配慮を平等にしようとの呼びかけです。それと同じことが2001年の原告勝訴判決によって起きたのです。原告の人たちは「困っているから助けてほしい」と裁判に訴えたのではなく、「らい予防法」は基本的人権の尊重を謳っている憲法に反していることを認めるようにと裁判を提起したのです。そのため、市民もこれまでの「救らい」という立場での応援団、支援者としての振る舞いでは連帯にならず、加害の継続になってしまいます。

さまざまなつながりで成り立っているのが私たちの社会です。そのつながりの中身を意識し振り返ると、「らい予防法」によって加害者に仕立て上げられた被害者であるのが私たち市民のポジショナリティ(政治的権力的立場性)に他なりません。そのポジショナリティから降りることで平等性が確保され、真の連帯も可能になります。非対称な関係で生きている市民が加害者に仕立て上げられてしまう現実が、ハンセン病問題によって映し出されている私たちの社会です。

優生思想に行き着く「救らい」活動

大日本帝国憲法から日本国憲法に変わり、教育勅語は廃止になりました。国民主権、基本的人権の尊重、平和主義という日本国憲法の趣旨に反するからです。それでも教育勅語の内容は素晴らしいと賞賛する人は今も存在します。親孝行や様々な徳目をあげて、人格形成に役立つなどとの理由です。同じように、「らい予防法」による国策が断罪された現在でも、「救らい」活動に問題を感じることなく、その考えを肯定する人もいます。ハンセン病者に献身的に尽くした人を誉め称えるという姿で今も出現します。しかし「救らい」活動とそのメンタリティとは決別しなくてはならないものです。「救らい」活動とは「らい予防法」の国策に対して、それに抗ってハンセン病者の人権を尊重する取り組みをしたのではなく、国の隔離政策と一体となって推し進められた活動だからです。それに対して「救らい」活動への反省もなく岩下壮一神父をはじめハンセン病者に尽くした人たちを讃えることは、教育勅語を今の時代でも活用することと同じではないでしょうか。

戦前に教育勅語は皇民化教育に活用され、戦争に向かう気運を高める役割を果たしました。それと同じように「救らい」活動はハンセン病者に対して救済と見せかけ、当事者が立ち上がるのをくじき、強制隔離政策遂行の補完的役割と隔離政策の実態を隠す機能を果たしてきました。要するに国家に迷惑をかけないように、迷惑になる人を無くす活動です。その行き着く先は、生活困窮者や疾病や障害のある人はいない方がいいという優生思想になります。

加害者の立場から降りることが差別の社会構造を除去する第一歩

今回の家族訴訟の判決では、ハンセン病に対する差別は国によって作られ、個人の心の中というよりは、社会に存在していると判示しています。社会構造の問題です。いくら人格者で「聖人」と呼ばれるような人でも、この差別構造の中で生きざるを得ないので加害者になります。国策によって加害者に仕立て上げられているのです。したがって差別の構造を見抜き加害者としての政治的権力的立場にいることを認めることが差別構造を取り除く第一歩です。その上でハンセン病と共に生きてこられた人たちと関わり、加害者の立場から降りるのが課題となります。それは特権を放棄し、圧倒的に非対称な現実から脱け出すことです。すなわちハンセン病と共に生きてきた人たちを救済の客体とみなすのではなく、解放の主体であり協働する者として関わることです。そのためには「司祭と信徒」という非対称的な権力関係から離れることが必須でしょう。 第二バチカン公会議が教会を「神の民」と表現したことにも通じることです。聖書において、神との契約を交わした者は等しく尊いという基本的平等性を主張しているのが「神の民」だからです。それによって、聖職者と信徒という排除の境界線が取り除かれ、差別の社会構造をも除去していく取り組みもにも拓けることを願っています。

2001年の判決以降、国の啓発活動はポジショナリティには注意を払うことなく、心の工夫や道徳によって「善い人」や「こころ優しい人」になるように諭すアプローチでした(国立ハンセン病資料館の展示内容など)。そのような取り組みでは国策による人権侵害や差別構造を取り除く効果は出てきません。それはハンセン病療養所での断種や堕胎、そして嬰児殺の実行は、極悪非道な人物でなく、心優しく献身的ですらあった医師や看護師によって実施されていた事実からも窺い知ることができます。改めて私たちの社会と啓発のあり方が問われています。

間違いの否定ではなく間違いを共有する社会へ

しかし、人は自らが加害者であることを認めることは難しく、むしろ自己防衛機能を発動して、加害者であることを否定したり、それを見ないで済むように振る舞ったりするのも現実です。それは歴史認識問題を背景として、日本の戦争責任の問題や植民地政策の責任を認めたくないという姿勢にも通底します。2002年10月に拉致被害者が帰国し、世間は歓迎ムードでした。その頃、駿河療養所の自治会長の西村時夫さんは、「拉致被害者は羨ましい。日本に戻ってきたら、故郷の人たちが歓迎してくれる。私たちは日本という国家によって拉致されたようなもので、裁判に勝っても、未だに故郷の人たちから迎え入れられることはない…」と淋しく話していたのを思い出します。拉致問題では市民は被害者の側に立って、気持ちよく「応援団」として振る舞うことができます。しかし、ハンセン病問題では地域社会は国の隔離政策に追随して加害の立場に置かれました。そのため隔離された人たちを故郷に迎え入れることは、地域の人たちに加害者であることを突き付けることになるのです。すると加害者であることを認めざるを得なくなります。そのためハンセン病病歴者を故郷の人たちが迎え入れることは難しいという頑固で厳しい現実があるのでしょう。このような仕組みも踏まえて、加害者であることを認め、間違いを否定するのではなく間違いを共有する社会を作っていくことがハンセン病問題から問われていることです。カトリック教会はこれまで、間違わないことを標榜してきたので、間違いを断罪し否定するか、否認し間違いではないかのように振る舞う集団になっていたところがあるのではないでしょうか。ハンセン病問題に関する検証会議の副座長であった内田博文さんは「加害者は、被害者から学び続けない限り、自分が加害者であることに気づかない」と言います。ハンセン病病歴者や家族の方々から学ぶことで、カトリック教会の間違いを否定するのではなく、間違いを間違いと認めそれを共有して、自らの加害性に目覚めることが肝心です。

日本植民地時代に韓国小鹿島(ソロクト)に建てられたハンセン病施設の「救癩(らい)塔」大天使ミカエルの像
日本植民地時代に韓国小鹿島(ソロクト)に建てられたハンセン病施設の「救癩(らい)塔」大天使ミカエルの像

《註》

※救らい: ハンセン病者を救済するようで、実際は国家をハンセン病から守ること。救らい活動では、救済される側と救済する側が固定化され、支配と被支配の暴力的な関係に陥る。

※ハンセン病問題: 国が作り出したハンセン病元患者とその家族への被害を、未だに私たちの社会は回復することができていないこと。「ハンセン病問題基本法(通称)」(2008年)で定義されている。

※家族訴訟判決内容: 戦前「周囲のほぼ全員によるハンセン病患者及びその家族に対する偏見差別が出現する一種の社会構造(社会システム)が築きあげられた。」この「社会構造に基づき、大多数の国民らがハンセン病患者家族に対し、ハンセン病患者家族であるという理由で、忌避感や排除意識を有し、ハンセン病患者家族に対する差別を行い(このような意識に反する意識を持つことは困難な状況になった)、これにより、ハンセン病患者家族は深刻な差別被害を受けたと認められる。」「この状況は、戦後、現憲法制定後も、無らい県運動を含むハンセン病隔離政策等によって維持され、ハンセン病患者家族に対する偏見差別も続き、人によっては強固になった。」(判決440−441頁)

※第二バチカン公会議: 1962−65年にかけて開催され、カトリック教会が方向転換を決定した会議。

※神の民: 聖書に立ち戻り、教会とは誰かを表現したもの。教会を位階制(ヒエラルキー)で捉えることなく、「いのちの神」との契約を背景に神の前では等しく尊いという基本的平等性を主張する表現。

※ハンセン病問題に関する検証会議: 2001年のハンセン病国賠訴訟判決に基づいて設置され、2005年3月に『ハンセン病問題に関する検証会議最終報告書』を提出している。

《HP掲載にあたり、一部加筆修正しました》

ラルシュかなの家の生活

横井 圭介
ラルシュかなの家アシスタント

12年前、イエズス会の修練者を辞めた当時、こうして「社会司牧通信」の原稿を執筆していようとは夢にも思いませんでした。

私は愛知県に生まれ、キリスト教はおろか宗教に触れる機会が皆無の家庭で育ちました。むしろ「地位」、「名誉」、「学歴」や「財産」が幸せのバロメーターであり、皆と同質でいることが良いという価値観を植え付けられてきました。

私は落ちこぼれでした。幼稚園に入ると、周りの子たちが出来ることが、いつまで経っても出来ないという経験をしました。幼馴染みの女の子たちからは「頼りない」と言われました。そんなみじめな思いを誰かに打ち明けることもできず、辛さを理解されないまま成長していきました。

とある地方の大学に入学した後も、自分に自信がなく、それでいて「世の中こんなもんさ」と上から見ているような、醜い歩み方をしていました。友人たちには彼氏・彼女という存在がいましたが、私にはそのようなものもなく、周りを憎み自分すらも憎んでいました。

そんな日々の中、たまたま潜り込んだ刑法の基礎ゼミで、「ローマに旅行に行こう」という提案が持ち上がりました。2000年のことです。担当教授の秋葉悦子先生いわく、「ローマには以前お世話になったピタウという神父がいる。今は教育省の次官(大司教)であり、その彼に会いに行こう」という話でした。

鬱屈した毎日を過ごしていた私は、この話を聞いた時に「何が次官だ、どうせ偽善者だろう」、そういう思いが先に立ったのをよく覚えています。しかし同時に「この人物に会っておけば、何かコネが生まれるかもしれない」という小狡い考えが浮かび、ローマ行きを決めました。

深夜、空港に着いたとき、ピタウ先生が立っていました。護衛と思われる人もおらず丸腰でした。私たちが彼に近づくと、満面の笑みを浮かべながら、「ようこそ、いらっしゃいました」と学生一人一人の手を握りながら挨拶をしてきました。私は、その手の温かさと眼差しに打たれ、思わず泣いてしまいました。

その涙の理由が、今なら分かります。「横井さん、よく今まで生きてこられましたね、私は知っています。あなたに私は会いたかったんだよ」というイエスの語りかけを感じたのでした。帰国して2年後、そのピタウ先生から洗礼を受けることになろうとは、思いもしませんでした。


それから4年の月日が流れ、イエズス会に入会し修練期を過ごしました。今まで自分を縛ってきた「他者と比較する文化」から抜け出せず、一喜一憂しながらもがいていました。11月になり、「病院実習としてラルシュかなの家へ行ってください」という修練長の指示を受け、のちに所属することになるコミュニティの門を叩いたのです。

1か月の滞在でしたが、初日から居心地の良さを覚えました。言葉を話さないなかま(かなの家では「利用者」のことを「なかま」、「職員」のことを「アシスタント」と呼びます)から、「あなたがいてくれて私は嬉しい」、「よく来てくれました」という声にならない声を聞いたような気がしました。実習に来る前までは「皆から受け入れてもらえるだろうか」、「上手く実習を終えられるだろうか」、「良い評価が与えられるだろうか」、そんなことばかり考えていました。しかし、それは見事に崩れました。

「どうやって役に立とうか」という思いから一転、逆に「迎えられる」という経験をしたのです。なかまは目の前の人物を、肩書や財力、立場、国籍で区別することはしません。一人の人間として、いつもありのままの姿で迎えます。

ラルシュを創設したジャン・バニエ(1928~2019)も、最初はおそらく「障害者を助けたい」という思いがあったのではないかと思います。しかし、やがて知的障害を持つメンバーが、現代社会に失われた「祝う」、「赦す」、「人と人とのつながりを生み出す」という賜物を持つことに気が付き、ラルシュは世界中に広がっていきました。私の経験した「迎えられる」という感覚も、そこに根付いていると思います。


2007年の秋に、正式にかなの家の一員に加わりました。働き始めて間もなくのこと、ゼリーを作るという仕事を任せられることになりました。なんと、あろうことかゼラチンを入れ忘れ、冷蔵庫にはオレンジジュースが40個のカップに・・・。一般的に考えられるのは「たかがゼリーすら作れないのか」という叱責、もしくは落胆。私の顔は真っ青でした。しかし食卓に行くと、なかまから「美味しいな、横井さんは作るのが上手いなあ」と言われ、本当に驚きました。

しばらくして、ある女性アシスタントとの関係が悪化するという事態に陥りました。声も態度も大きい私は、周りから悪者と見なされてしまいました。そして、それまで所属していたグループホームから離れ、別のホームに移ることになりました。新しい家に来た初日「なんで皆、分からないのか、あいつのほうが悪いんだ」という怒りと、恥ずかしさとで胸がいっぱいで、押し黙ってメンバーと夕食をとっていました。「明日、かなの家を辞めると責任者に言おう」という考えすら浮かんできました。すると、食事が終わり食器洗いをしているとき、なかまのNさんが「にぎやかになった、にぎやかになった。横井さんが来てにぎやかになった。僕は横井さんが来てくれて嬉しいよー」こんなことを言い始めたのです。

私は「先輩アシスタントをいじめ、結局追い出され、この家に来た。皆も自分を嫌っている。これから誰からも相手にされないだろう」と思い込んでいました。それは、あっけなく崩されたのです。Nさんの言葉は、今まで私が見てこなかった景色を与えてくれました。


時はさかのぼり、イエズス会の修練者時代、インドのケララで1か月間を過ごしたことがありました。そこで、インマヌエルという1学年上の修練者に出会いました。彼は、かつてプロのダンサーでした。教会の日曜学校で同伴したときに「おいヨコイ、踊ってみろ」と言われたのでした。

私と言えば、体育の成績はいつも1。人前で踊ると「下手だなあ」と失笑を浴びた経験ばかり。とっさに「自分には不可能だ、恥ずかしい」と答えました。

すると、インマヌエルは真剣な表情になり、こんな一言を放ちました。「何を言ってるんだ、お前は? お前を表現しろ、お前を表現するんだ!」

そこまで言われたら、失笑を買うことを引き受けよう、そんな思いで「タコ踊り」を披露しました。

終わった後、彼は真剣な表情をやや崩しながら「ヨコイ、やれたじゃないか、お前は。お前は自分を表現できるんだ!」


かなの家で生活をする中で、このインマヌエルとのエピソードを色々な場面で思い返します。上手く行う、人から認められる、褒められる・・・そういうことが大事なのではなく、「表現すること」そのものに大きな意味があるのではないか?

なかまはありのままの自分を「表現している」存在です。一方の私は、今でも表現することに壁があります。さらに、他者の表現に関して非寛容で、ジャッジを入れて駄目だとみなす傾向があります。ありのままで相手を迎えるということに関して、私はなかまから程遠いところにいます。

この拙い文を読んで心に響くものがありましたら、どうぞかなの家を訪ね、なかまと「出会って」みてください。私が経験してきたような「新しい景色」が、あなたにも広がることでしょう。

ラルシュかなの家

〒421-2114 静岡市葵区安倍口新田65-5
Tel: 054-206-0830 Fax: 054-294-8070
https://larchejapankana.localinfo.jp/
Email: larchekana@s9.dion.ne.jp

【追悼】ブラザーエルナンデス(1931~2019)

~善いことをする面白い聖職者、マノロ、ありがとう~

ハビエル ガラルダ SJ
麹町聖イグナチオ教会協力司祭

神の国は何に似ているか。何にたとえようか。それは、からし種に似ている。人がこれを取って庭に蒔くと、成長して木になり、その枝には空の鳥が巣を作る。

ルカ13:18-19

ブラザーエルナンデス, S.J.

2019年11月28日、イエズス会上石神井修道院にて、Br. Manuel Hernandez Montesinos SJは、心不全のため、静かに息を引き取りました。88歳の生涯でした。

小さな「からし種」であった彼は、成長して「木」になり、「空の鳥」である悩む人、つまり私たちは、その枝に巣を作ったり、ひと休みしたりしていました。

さすが、エルナンデスさん! 学歴も肩書もそれほどなかったのに、彼の葬儀のためにはたくさんの人が集まりました。心の実力です。心のある人でした。

天国はさぞ賑やかになったでしょう。聖ペトロの肩をバシバシ叩いて、「よう、ペトロ殿、元気か?」と言っている彼の姿が想像できます。今の天国は大変です。

ところが、この世の私たちは寂しいです。お通夜の説教でアルティリオ神父様が引用したスペインの歌は、私たちの悲しみを表しています。「友達が離れるとき、魂の中では何かが壊れる」。

最も悲しんでいるのはたぶん、99歳のブラザーマルコでしょう。非常に良い友達でした。二人で散歩するのが大好きでしたが、途中で喧嘩をして別々に帰ってくることもありました。サラゴサ出身の人は頑固だと言われていますが、エルナンデスさんはまさにサラゴサ出身でした。

しかし、エルナンデスさんの生の声は、もう聞くことができなくなりました。信じられないです。「声」といえば、こんなことがありました。彼が亡くなる二日前に、教皇フランシスコがイエズス会の家(SJハウス)にいらして、兄弟である会員たちと共にミサを捧げ、朝食も共になさいました。私が自分のお皿を取ろうとしていたとき、誰かが私の背中を押しのけて声を出しました。「どけよ!」 振り向くと、やはり彼でした。良く言えば「元気で良かった」、悪く言えば「相変わらずで治りませんね」と思いました。しかし実は、その言葉が彼から聞いた最後の声になりました。最後の声、貴重な言葉は、「どけよ!」でした。


 ところで、彼の名前、マヌエルのニックネームは「マノロ」です。

11月15日のことです。毎週金曜日7時半からは朝祷会が開催されていますが、この日のゲストスピーカーであったBr.エルナンデスは、こんな話をしました。「死がいつ来るのか、私たちにはわかりません。準備していなければなりません。人に深い喜びを感じさせるという準備をするのです。私は若いときに、楽しく遊んでいたプレイボーイでした。しかしある日、目の不自由なおばさんを見かけたので、彼女の手を取って道案内をしました。彼女は、母が作ってくれたチョリソーのサンドウィッチの匂いを感じて、『美味しそうなものを持っていますね』と言いました。私は、『お腹が空いていますか? あげますよ』と言って、サンドウィッチを渡しました。その時の彼女の最高に嬉しそうな表情を見て、私も本当に嬉しくなりました。あのとき私が感じた喜びは、遊んでいたときの楽しさとは違うとわかりました。その喜びは、これからずっと、困っている人に深い喜びを感じさせるのが私の人生の道だと教えてくれました。そのためにイエズス会に入りました。司祭になるためではなく、皆に役立つ仕事をするブラザーになるためでした。30年間にわたって大工の仕事をしていたイエスのように・・・。」

つまり、喜びの質は、彼の生きる根本方針を照らしたわけです。日本に来てからも、台所やボイラー係のような仕事をしながら20年間を過ごしました。司祭になる神学生のためには二年間の日本語学校がありましたが、ブラザーのマノロにはなかったので、仕事の間の休み時間を使って、自分で日本語を覚えました。

その当時主任司祭であったカンガス神父様に呼ばれて、聖イグナチオ教会に来ました。34年間にわたって、香部屋の仕事、葬儀や結婚式の手伝い、ロザリオや十字架の道行きの祈りなどを行い、そして自分の部屋にひっきりなしに来る人と共にいるという仕事をし続けてきました。それに、毎朝4時半に起きて、教会の門とすべてのドアの鍵を開けていました。雨にも負けず、雪にも負けず。

朝のミサのときには、長年、侍者と朗読者の役目を果たして、立派な日本語で聖書の箇所を読んでいました。実は、難しい日本語は勝手に読み替えて、自分なりの内容を語ることもありました。ミサの参加者にとっては、パウロの言葉を聞いているのか、マノロの言葉を聞いているのかは、微妙なところでした。

二冊の本も書きました。『エルナンデスさんの本』、そして『信 望 愛 ~六十五年を日本で生きて』です。


エルナンデスさんは立派な人格者です。正しいことを言うまじめな聖職者というよりも、善いことをする面白い聖職者でした。これを皆が学ぶように努めれば良いと思います。正しいことを言うまじめな人はたくさんいて、間に合っています。善いことをする面白い人は、ありがたい存在です。

教皇フランシスコは、「教会の外に出なさい。羊の匂いのついた羊飼いになりなさい」と勧めています。マノロは、50年以上前からずっと外の刑務所に出向いていましたし、教会の外のたくさんの人が彼のところに来ていました。刑務所の教誨師として、すべての宗教の教誨師に好かれて、可愛がられていました。お通夜にも葬儀にも、刑務所の関係者や教誨師たちがたくさん来て、彼の死を悼んでいました。本当は、たくさんの囚人たちも来たかったのですが、出るに出られぬ事情がございまして・・・。

エルナンデスさんは、教誨師の私にときどきこう頼みました。「刑務所にミサはありますね。囚人たちはミサが好きだし、役立っているから続けてくださいね」。つまり、自分の教誨師としての活躍よりも、囚人たちを大切にしていました。中心は自分ではなく、囚人たちの成長でした。これは難しいことです。純粋な愛が求めるのは、“私が”人を助けることよりも、人が助かることです。エルナンデスさんは純粋な人でした。

恐れを知らないマノロは、すべてを超える人間でした。人の身分と財産と肩書を超えていました。偉い方を受け入れていたし、弱い立場に置かれている方も平等に受け入れていました。有名な作曲家・指揮者の山本直純さんは、エルナンデスさんの導きで洗礼を授かりました。非常に貧しい方々をも、同じ温かさで受け入れていました。まさに、イエス・キリスト自身がなさっていたとおりです。

マノロは、時間と空間を超える人間でした。マノロは、善と悪を超える人間でした。マノロは、面白くておっちょこちょいな人でした。そしてマノロは、善いことをする面白い聖職者でした。
 

「友達が離れるとき、魂の中では何かが壊れる」。彼は、今こそ幸せです。また会えるのです。まったく違った様子と状態で、まさしく同じ人間が生きるとイエスは教えてくださいました。想像することができない状態では、まさしく同じマノロは、今こそ幸せです。きっと、ちびっ子の天使たちにアメを配っているでしょう。そうしている彼にまた会えるのです。

神様、マノロをよろしくお願いします。マノロ、私たちをよろしくお願いします。神様、この素晴らしい人に会わせてくださってありがとう。エルナンデスさん、一緒にいてくれて、友達になってくれてありがとう。

もうひとつの「ありがとう」があります。マノロの人生の総括的評価になる一言です。彼が死んだとき、迎えてくださったイエスの一言です。マノロのすべてになっていたイエス・キリストからの一言です。「マノロ、ありがとう!」。これです。

さあ、私の父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。 お前たちは、私が飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。

マタイ25:34-36

消せない炎を運ぶ人 ~私の出会った教皇フランシスコ~

小林 豊
カトリック青年

38年ぶりに教皇が来日した。この来日は、間違いなく日本の教会にとって大きな喜びであったのだと思う。私の周囲でも滞在中にはSNSのニュースフィードが教皇フランシスコ一色になった。しかし、なぜ「いま」だったのだろうか。

前回の教皇来日時(1981年)、私の両親は20歳前後の若者であり、二人とも今の私よりも若かった。二人とも洗礼を受ける前で、当時の教会には若者が多かったことだろう。それに対して現在では、おそらくほとんどの教区や小教区において、司祭不足や信徒の高齢化が進み、もはや日本の教会が持続不可能であるとの危機感があるのではないだろうか。だが、はたしてこれは教会だけの問題だろうか。むしろ様々な面で社会全体が持続不可能な時代を私たちは生きていると言えるのではないか。

日本は一見平和で安全な社会である。しかし、その「平和」の影では、声を上げる力すら奪われた人々の呻きや叫びが常にこだましてきた。現代においても、至るところで嘆く価値のある“いのち”とそうでない“いのち”が選別され、多くの人々がその苦しみや死を認識される可能性すら奪われている。いじめや自殺、孤独死などはもはや珍しい出来事ではなく、なくならない差別や外国籍も含む弱い立場の労働者の使い捨てなど、弱くされた人々や貧しい人々に対する不正義がはびこっている。教皇来日のテーマが「すべてのいのちを守るために」とされた背景には、日本社会に対等な“いのち”のあり方を拒否するような価値観や構造が存在することが無関係ではないはずだ。

肥大化した市場原理があらゆる世界を飲み込み、“いのち”への畏敬が空虚な言葉に取って代わられ、恐ろしい勢いで人間の内と外に荒野が広がっている。その中で、若者たちは人間の本性を開花させる形ではなく、労働市場や社会の押し付ける枠組みの中での成功や自己実現を強要され、身も心も窒息させられている。子ども時代から偽りの言葉で薬漬けにされることで、「信じる」ことが奪われ、社会が生産性やスピードばかりを追い求めてゆく中で、生の喜びを味わう感性を養うための時間は嗜好品になりつつある。

教会は社会の中に存在する。現教皇は世界のどんな指導者よりも世界の現状に心を砕いてこられた。私が目にした彼の姿は、温かさや柔らかさ、静けさとともに、身体から滲み出る「哀しさ」も語っていた。そのような教皇だからこそ、その言葉は時に政治的な事柄を話しながらも、政治家のそれとは全く異なる色彩を帯びていたのだろう。

おそらく、今回の来日は「老いていく教会」に新しい炎を灯すためのものでもあったはずだ。私たちはその炎を胸に宿して「老いていく社会」で生きていかなければいけない。そして、その炎は、仮にあした日本が、もしくは世界が終わりを迎えるとしても“いのち”の尊厳のために働き続けるために必要な糧であり希望だ。

教皇の向こうに本当に生きた希望を「見た」気がする。彼の姿は、自らをそう紹介したようにこの世界をキリストと共に旅する「巡礼者」の姿だった。私もあの面影に励まされながら、この旅を続けたいと思う。